elude丸

日々の思い描くことをツラツラと綴るブログ

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作文が教育として必要、と言うが私としては「ディベート」を強く押したい

      2017/07/10


教育の現場に必要なのは自分の気持ちを伝える「ディベート」授業だと思う

教育現場で必要なことは何か?
そんなことを取り上げた記事を紹介します。

日本は英語以前に「作文教育」をやるべきだ

この記事では日本教育の現場に「作文教育」をすすめるべきだと紹介しています。

個人的にはうなずける、部分もある。というのが私の判断です。

作文教育というのは個人的には
今後の情報社会において、情報収集する能力であったり
著作権の問題であったり、を解消するための教育につながるため
是非とも導入し、どのように書くべきなのか
どんな風に資料を集めて、どんな風に加工するべきなのか、著作元に配慮する書き方とは
という部分まで教育していくことは良いことだと思います。

また、私個人のことではありますが
私がここまで文章を書くのが好きになった一つの起点は
小学生の頃に、自分が書いた読書感想文を当時の先生から褒めてくれたこと
だったと言えます。

そういう意味では文章を愛するためにも
作文というのを、ただの夏休みの宿題にするのではなく
教育として真剣に取り組んでみるのもよろしいかもしれません。

とは言え、海外を見据えた時に必要なのは作文でしょうか?
という疑問を覚えずにはいられません。

やはり海外を見据えたときに必要なのは
ディベート能力だと私などは考えるわけです。

文章をより良くするのも必要かもしれないが、海外ではディベート能力では?

ディベート能力とは日本語で言えば「討論」する能力です。

誰かと意見を戦わせながら、お互いの主張を聞き
そこに反論をはさみながら自分の主張の正しさを喧伝していく訳です。

こういうディベートを繰り返す機会が日本にはないため
どうしても海外からは「シャイ」という風に受け取られてしまいます。

逆に日本は「空気を読む」という技術を身につけていますが
海外との付き合いを考えた時、その能力はどうなのでしょうか?

日本人が日本にいる場合には、周りが空気を読んでくれるため
詳しいことを言わなくても、周囲が自由にそれを判断してくれます。
対して海外へといくと、自由に状況を読み込んでくれません。
こちらがしっかりと思っていることを伝えなければならないのです。

日本人がシャイというわけではなく
日本人は日本人がある程度、状況を推移をしてくれるから
わざわざ伝えることを必要としない。
そんな周囲の状況に慣れてしまっていることで
自分から発信する能力を磨く機会に驚くほど恵まれていません。

そういう意味では作文というのも必要かもしれませんが
必要なのは、ディベートし自分の気持ちを発信する方法ではないかと考える訳です。

それなら、ディベートを行うことで空気を読むことだけに長けるのではなく
こちらから気持ちや想いを伝える方法を見に付けておくのも
必要なのではないでしょうか?

そういう意味で私はディベート能力が必要だと考えるわけです。

 - ヨモヤマ